[TRPG]TRPGにおける物語
これを見て、僕は首を傾げた。
僕もTRPGリプレイは、それほどのヘビーユーザーではないにせよ100冊ぐらいは読んでいると思うが、『物語』として面白いTRPGリプレイというと、ほぼ思い浮かばなかったからだ。
(強いて言うなら、去年読んだ『くいっくすたーと』のリプレイが、若干琴線に触れてきたことぐらいだろうか)
もっと厳密に言うと、これらは「僕が面白いと思う『物語』ではない」となる。
「TRPGは参加者全員でひとつの物語を作り上げるゲームだ」という考え方は古くからあるのだが、一方で、TRPGの紡ぐ物語は、非常に独特だと思う。
何と比べて独特かと言えば、小説や漫画、アニメや映画などの他メディアの物語と比べて、独特だ。
これら他メディアの物語は、通常、その物語を「面白くするため」あるいは「面白く見せるため」に、様々な狙いをもって、様々な技法を駆使して作られる。
読み手や視聴者の感じ方、受け取り方などを意識し、高度に計算された結果としてはじき出されるのが、これらのメディアの「面白い物語」だろう。
例えば、クライマックスのあるシーンを盛り上げるために、それよりも前のタイミングで予めこういうシーンを演出しておこう、というような考え方で作られるわけだ。
しかし、TRPGの場合はそうはいかない。
なぜなら、TRPGの特色である即興性や、雑多な考えが混ざり合ってできる統一性のなさなどのTRPG独特の諸要素が、これらの「面白い物語」を作るための方法論と、大幅に矛盾することがあるからだ。
GMが、他メディアで行なわれるのと同じ方法で「面白い物語」を作ろうとしたら、そのセッションは高確率で失敗するだろう。
(読者や観客の視点で)面白い物語を作るためには、物語の主人公であるところのPCの行動は、「このキャラクターがいつどこでどういう風な行動を取り、どういう風な発言をすると面白い物語が出来上がるか」という視点に沿って、必然的に決定されなければならないことになる。
そしてプレイヤーが、そういったことの考慮をせずにPCの行動を決定することは、NGとなってしまう。
この時点で、一定程度のプレイヤーが拒否反応を示すことになるだろう。
あるいは、そういったメタ視点、すなわち「面白い物語を作るためにはこのキャラクターはどう動いたら良いか」という視点から、PCの行動を決めるプレイヤーもいるかもしれない。
例えば、FEAR系のハンドアウト型セッションにおける「PC①」というのは、そのような立ち回りが期待された立ち位置であることが多く、物語の展開に沿わない行動はNGとされるだろう。
(そういう視点で動かすプレイヤーがいるかいないかというよりは、大抵のプレイヤーは、程度の違いこそあれ、みんなある程度はそういった視点を持っているというほうが妥当かもしれない)
しかし、この場合もいくらかの問題が付いて回る。
特に大きいのが、プレイヤーごとの「面白い物語」に関する認識の違いであろう。
例えば、ハッピーエンド好きのプレイヤーと虚淵玄とが同卓したら、「面白い物語」に関する認識がまったく合わないことは想像に難くない。
(いや、虚淵玄も、ハッピーエンドを引き立たせるために痛烈なアンハッピーが必要だ、ぐらいに思っているのかもしれないが)
この場合、実際には、どちらかが自分の考える「面白い物語」について「妥協」をせざるを得なくなるだろう。
一方、そのような恣意的な「面白い物語」を作ろうとしなかった場合でも、TRPGの紡ぐ『物語』にも、独特の面白さが出てくる場合があるように思う。
ピンと来たのが富樫義博へのインタビューを見たときで、「そいつがちゃんと生きてて自分で判断して」行動しているように見えるような物語を自然に作れるという点は、TRPGが紡ぐ物語の大きな強みだと思う。(※注)
こう考えると、なるほど、バブリーズが支持されたのも頷ける話だ。
しかし一方で、「『物語』として面白い」TRPGを求めている人たちは、バブリーズのようなプレイは物語としては認めない傾向にあるんじゃないかなーという予感もしないでもない。
そんなわけで、『物語』とは何とも曖昧な言葉であるなぁと思うのであった。
※注:誤解のないように付け加えておくと、そのような遊び方がTRPGにおいて常に正しいと言っているわけではない。遊ぶシステムやメンバーなどによっては、そのキャラクターが事態を改善するために全力で考えた判断を重視するよりも、ストーリー展開の空気を読んだメタ視点重視のプレイングをしたほうが楽しいセッションになる場合は、少なくともあると思う。なお、そのどちらを好むかによって、そのプレイヤーが好きなTRPGシステムは変わってくるだろう。