印象論としてのTRPG論考
さて、「論考」などと銘打っていても、基本的に僕のやっていることは、自分の感じた印象を起点に議論を始めて、他者に何らかの印象を与えるところに議論を終える論考だ。
僕の書いたことに対して「なるほどね、それは確かにそうかも」とか思うならば、多分大前提として、起点とした僕の印象に対する「共感」が読み手にあるんだと思う。
例えば、この段階的ダメージの喪失という記事。
「当初のD&Dにおいて、ヒットポイントとは「段階的ダメージ」を表すものであった。」なんて語りだしているが、そうであったということに根拠なんて何もない。
ゲイリーガイギャックスにインタビューして聞き出したわけでもなければ、D&Dのルールブックにそのように書いてあるわけでもない(多分)
ただ、僕が「きっとそうだろう」と考えたことを、それらしく聞こえるように書き出しているだけだ。
まあ、世の中の「議論」と呼ばれている「議論らしきもの」は、だいたいそんなところから話を始めていると思う。
しかし、その発言の正当性に根拠がなくても、読み手が「ああ、そうだろうね」と思えば、読み手はその発言を妥当なものと認める。
これが、ここで言う「共感」だ。
僕が妥当だと感じた内容を、読み手も妥当だと感じるわけだ。
これは、発言者の最初の発言内容が、議論のしかたで言うところの「公理」として、読み手から認められたことを意味している。
一方、逆に読み手がそれを「公理」として認めなければ、その書き出しから論を発した議論は、以後すべて何の説得力も持たなくなる。
どれだけ論理的に筋道が通っていても、起点となる「公理」が認められなければ、終点の「結論」も納得できるものではなくなる。
また、議論の途中でもこのような「共感」を必要とする発言が多数含まれる。
例えば上で出した段階的ダメージ云々の話で「この段階的ダメージは、基本的には、そのゲームの間、保存された。1レベルのクレリックは~」という部分だって、「いやいや、それは違うよ。怪我したら街に戻って数日寝てHPを回復させてから再探索するに決まってるじゃないか」と読み手が思ってしまえばそれまでで、以下の文章はほぼ何の説得力も持たなくなる。
だから、もう。
「論考」なんて言っても、基本的に、最初から最後まで印象論なのだ。
どこまで「共感」してもらえるかによって、どれだけ「妥当」だと思ってもらえるかが決すると言ってもいい。
ただ、書いてる僕は「これは多くの人に共感してもらえるだろう」と信じて、話を進めるしかないわけだ。
あるいは、別に多くの人に届かなくてもいい。
読んだ人のうちで、ほんの一握りでも共感してくれる人がいれば、それでいいと思っている。
(だいたい今の御時世に、古臭く凝り固まったファンタジーRPGのゲーム観を持ち出してTRPGを語っている時点で、高が知れるというものだ)
そんなの分かっててやってるんだよほんとだよ信じてよ、というお話。

