[TRPG論考]自分だけのキャラクターを妄想する楽しみは悪であるか
そのキャラクターはどんな容姿をしていて、仲間たちとどんな風に喋って、どんな風に暮らしているのか。
自分だけのキャラクターを妄想することは楽しいことだ。
ところで、これがTRPGになると、「妄想」では良くないと言われることがある。
TRPGは多人数で遊ぶゲームなのだから、自分の中だけで「妄想」しているのではなく、それを外に、つまり一緒に遊んでいるプレイヤーと「共有」したほうがいいじゃないかと言うのだ。
なんと! 自分の妄想の中でのみ存在したキャラクターを、友人たちと共有できるというのだ。
なんて素晴らしい、画期的な遊び方なんだろう!!
しかし、自分が妄想しているキャラクターを、そのままの形で他のプレイヤーの脳に移植することはできない。
自分の中にある漠然としたイメージを、言語化して、伝えないといけないのだ。
ところが、あんまり細かなイメージを言語化して伝えようとしても、他者には伝わらないことが多い。
そこには「言語」というツールの限界があり、また人の想像力の限界もある。
一緒にTRPGをして遊ぶ以上、自分のキャラクターのイメージは、きちんと他のプレイヤーに伝わっていたほうが良い。
キャラクターのイメージがきちんと他のプレイヤーに伝わっていれば、相手プレイヤーも、自身のキャラクターがあなたのキャラクターにどういう風に絡んだらいいのかイメージできるようになり、コミュニケーションが円滑になる。
コミュニケーションが円滑になれば、あなたのキャラクターを表現する機会も増え(そして相手のキャラクターが表現される機会も増え)、みんなのキャラクターはよりよく共有されることとなる。
素晴らしい。良いことずくめだ。
そこでTRPG者は考える。
自分のキャラクターを、ほかの人に、よりよく伝わるようにするにはどうしたらいいだろう?
そのひとつの解が、「誰にでも分かりやすいキャラクターを作る」ことだ。
典型的な、あるいはステレオタイプなキャラクターと言っても良い。
典型的なタイプのキャラクターは、一言二言説明すれば、「ああ、ああいうキャラね」と、誰もが簡単に把握してくれる。
逆に、他に類を見ないような突飛な、あるいは変則的なキャラクターというのは、他のプレイヤーからは把握しづらい。
なぜなら、そんなキャラクター、誰も見たことがないからだ。
誰も見たことのないようなキャラクターをイメージすることは、誰もが見たことのあるようなキャラクターをイメージすることよりも、格段に難しい。
したがって、TRPGで使用するキャラクターは、誰も見たことのないような突飛で変則的なキャラクターよりも、誰もが見たことのあるような典型的でステレオタイプなキャラクターであったほうがいい。
誰にも伝わらないような、自分の妄想の中でしか生きられないキャラクターに価値はない。
そうだね?
……さて。
一見正しそうなこの話、どこかでちょっとねじれている。
この理論によれば、もう、TRPGにおいて自分だけのキャラクターを妄想することは、不適切なのだ。
自分だけのキャラクターを妄想する楽しみを、TRPGの楽しみの起点にするプレイヤーにとっては、首を傾げるべきところなのだと思う。

