[哲学]厳しさと優しさと甘さ
ときには厳しさこそが、優しさとなることもある。
まあよく言われる話だ。
よく言われる話だが、これらの言葉の意味するところを本当に理解している人間がどれぐらいいるんだろうか、と疑問に思ってみたりした。
「厳しいことは常に、優しいことだろうか?」
と問うて、そりゃあイエスだろうと断言する人間はほぼ皆無にしても、そりゃあノーだろうとノータイムで断言をするのもちょっと難しい気がする。
どういうときに、「厳しい」=「優しい」じゃなくなるのだろう。
その厳しさが、相手に対する愛情から来ているならば優しさで、相手に対する攻撃的な気持ちから来ているのであれば優しさではない、ということだろうか。
「甘いことは常に、優しくないことだろうか?」
これも難しい質問だ。
こう問われると、ときには「甘さ」が「優しさ」となる場合があるような気がしてくる。
相手が精神的に本当に参っているとき、厳しくすることは優しいことだろうか?
そもそも「人に甘い」「人に厳しい」とは、具体的にはどういうことだろう。
とりあえず、「厳しい」という言葉は現代ではプラスのイメージで捉えられることが多く、逆に「甘い」という言葉はマイナスのイメージを伴う言葉であるように思う。
これらを対義の語として置くのはどうにも不公平な感が拭えないので、ちょっとシーソーを揺らしてみたいと思う。
「人に甘い」人は、他者の欠点に対して寛容であることを常としている人だと言うこともできる。
逆に「人に厳しい」人は、他者の欠点に対して、常にその改善を要求し続けるスタンスだと言える。
ただ単に欠点を「指摘」するだけでも、相手としては、改善を暗に要求されていると感じるだろう。
そして指摘する側に相手の改善を促す意図がまったくないと言えば、これはたいてい嘘になる。
他者の欠点を一々指摘することは、ときに人の和を乱す。
特に「自分に甘い」、すなわち自分の欠点に対しては寛容な人間が、「人に厳しい」、すなわち他者の欠点を改善させようという態度を取ると、実に効果的に周囲の人間とのコミュニケーション不全に陥ることができる。
人に厳しくするなら、自分にも厳しく。
当たり前のことのようだが、そんなに徹底的に自分に厳しくできる人間もそうはいないわけで。
……と、そんなことをつらつら考えてみた。
おしまい。